北の縄文ニュースレター

2013.04.11

2013年3月2日 道民会議シンポジウム/基調講演 猪風来氏

北の縄文道民会議シンポジウム

今、世界各地で「縄文ブーム」が起きていて、私もいろいろな場所に行って活動をしています。こうした活動の根っこにあるのは、「縄文の復活」の思いと浜益村での体験です。そもそもなぜ浜益に移住したかと言うと、「縄文暮らし」をしたかったからです。
1976年ころ、千葉県の加曽利貝塚博物館に縄文の土器作り同好会があり、私はその連中と一緒に縄文土器を復活させようと大格闘しておりました。私は武蔵野美術短期大学の油絵の卒業ですが、縄文の虜になり、そこで縄文の野焼き技法を初めて復活させました。そして、復活した縄文の心と技を全国に広める活動をしていました。
今から約35年前頃は、縄文を再現したり創作土偶を作ったりする人は誰もいなかったので、だんだん関東で注目されるようになり、仕事も来るようになっていました。1984年に埼玉県の丸木美術館で初個展もやらせていただき、これが日本初の現代縄文アート展となりました。
仕事が来るようになって、角川文庫の今月の新刊などの中吊り広告なんかに私の作品が写真でポンと載ると、それだけで10万円もらえたんですね。当時の10万円はものすごいお金です。しかし、私は縄文の形を真似できるけれど、縄文の心がわからない、と自己矛盾に陥りました。そして一度これを捨てて縄文暮らしをしようと思い立ち、北海道へ移住したのです。
しかし当時はバブル期ですから、私のような貧乏人には土地が手に入りませんでした。本当は中部山岳地帯か出身の広島を探しましたが無理でした。懐具合を考えて、だんだん北の方に行ってしまい、ついに浜益村にたどり着いたわけです。
1986年に家族を引き連れて浜益に移住し、そこで四男が生まれました。原野で生まれたので「原野」と名づけましたが、自宅分娩で私が産婆をやりました。当時は自然分娩のラマーズ法が流行っていましたが、自宅分娩となると技法がわからず、本も何もないという状態でした。それでも、こんないいチャンスを医者にくれてやるものかと思っていろいろ探しましたら、『ウパクシマ』という本があり、アイヌの産婆さんの本でしたが、これを読んで無事出産することができました。
その体験から生まれた作品が、「妊婦像」の土偶です。高さ80センチくらいの作品です。

「妊婦像」(1987年)

 

 

 

 

 

 

 

「妊婦像」(1987年)

 

これは「出産」という作品ですが、子供は本当にこうやって生まれてくるんですよ。つるんと出てきて手にのりますが、本当に、はかなく、やわらかく、そして温かいものです。生まれるときの顔は、口がとんがって、目は周りがふくらんでいます。お腹のなかで目が傷つかないように、眼球を保護するためにふくらんでいるんですね。それが生まれてからすっと引いて目が開きます。

この目は——おわかりですよね、遮光器土偶の目です。土偶の目は、生まれた直後の目、つまりあの世に一番近い人間の目なんです。哲学者の梅原猛はこれを「死の顔」と言いましたが、それは半分正解で、本当は「生の顔」です。生と死、再生、これは一つの縄文の真髄です。それを私は出産で感じ、非常に感動しました。感動しないほうがおかしいですよね。我が子の誕生は人類最高の感動ですから。

「出産」(1987年)

 

 

 

 

 

 

 

「出産」(1987年)

 

このとき、私は第一の開眼をしました。これが生命なんだ、とわかった。そこでいろいろな作品が生まれました。命を作ると、次は「命のなか」を作りたくなる。つまり心、喜怒哀楽の領域を作りたくなります。さらにその次は心の周り、森羅万象を作りたくなりました。
これは竪穴住居を再現したものですが、自己流に設計し、なかで創作もしようと思ったので窓もつけました。息子の原野を抱えて竪穴住居で暮らしているとき、第二の開眼がありました。

竪穴住居「風風庵」(1991年)

 

 

 

 

竪穴住居「風風庵」(1991年)

 

竪穴住居は地面に1メートルくらい穴を掘って、そこで火をたきます。北海道の冬は皆さんご存じのようにたいへんな寒さで、マイナス20度になるとたいへんに過酷な世界です。しかしそこで暮らし、いろりにチラチラと燃える火にあたっていると、心おだやかにほっとします。人間はみんなそうですね。火の周りでお茶でも飲んでいるときが一番安心できる。
私もそういう風に竪穴住居で安堵しておりました。そのとき、早く春になって花が咲かないかななどと思っていると、ちょうどその目線の上に地面があり、この地面に草が生え、虫がいて、キツネやタヌキもいる。生きとし生けるもの全てが目線の上にある。ここにある生命のすべてが尊いものだということが、自然に心に入ってきました。
そうした縄文視座をこのとき開眼しました。

これはアイヌ民族の方々がカムイノミを行っているところ、ノッカマップ・イチャルパです。ここで私は37の土偶を作って納めました。アイヌ民族の37人の指導者が惨殺された「クナシリ・メナシの戦い」の供養を毎年していますが、ここは全く観光化されていません。みんな怖がって近寄らないんですね。アイヌ民族のかたもあまりこない。まして和人はほとんど誰も来ません。

ノッカマップ・イチャルパ(1994年)

 

 

 

 

 

ノッカマップ・イチャルパ(1994年)

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